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mono造り温故知新

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現在の日本の高度なもの造り技術は、明治維新後に西洋から導入した欧米の科学技術を取り入れて、磨き上げた結果と言われています。しかし明治維新以前にも日本には高度な技能・技術が存在し、特定の分野では決して欧米に引けを取るものではありませんでした。この日本人の血に流れるもの造りのDNAが、今の日本のもの造りにも生きています。そういった先人たちのすばらしい業績を振り返り、もの造りについて日本人としての誇りを持ち、さらなる発展を目指したいと思います。

第二話 「蒸気船を持ちたい」という殿様の命令でつくってしまった家具職人

幕末にペリーの黒船が日本に来港し、日本も黒船が必要だという声があちこちで起こりました。そこで、4つのグループが蒸気船の製作に取りかかりました。

第一のチーム、ようやく重い腰を上げた江戸幕府、
第二のチーム、琉球を支配下に入れ、海外の情報が豊富でかつ、砂糖などの収益で  資金の豊富な薩摩藩、
第三のチーム、幕府に忠実で、長崎を所管していたため、海外の情報が豊富な佐賀藩。
第四のチーム、四国の小藩 宇和島藩。

ただ、この宇和島藩には差し迫って蒸気船をつくらなければならない事情はありませんでした。理由は、藩主 伊達宗城が参勤交代の途中に品川で停泊していた黒船を見て「あんな船を持ちたい」と思ったからでした。そして、蒸気船建造を命じたのは、なんと藩内で器用者といわれた仏壇・仏具の職人 提灯屋の嘉蔵(後の前原巧山)でした。しかし、 いくら器用でも、蒸気船どころかろくに機械も触ったことのない嘉蔵の苦労は大変なものでした。

当時、蘭学大好きな藩主 伊達宗城のために、村田蔵六(後の大村益次郎)が翻訳のために宇和島藩に来ていました。殿様から蒸気船製造の命を受けた藩の下級武士達は、よほど人材に困ったのか、提灯屋の嘉蔵の元を尋ね、蘭書の図面をもとに蒸気機関がつくれないか依頼しました。嘉蔵は、漁に使う網曳きのロクロを思い出し、これを工夫して不眠不休で思案し、箱車に四輪をつけ回転するカラクリを作り上げて見せました。

伊達宗城に見せますと

「本物を造れ。嘉蔵に金子(きんす)を取らせる」と褒美を与え、     
二人扶持五俵の武士に取り立てました。

嘉蔵が袴に大小を差し、自宅に帰ったところを見た近隣の住民は、気が狂ったのかと思ったそうです。(汚い身なりをして出かけた嘉蔵が、侍になって帰った来たのでさぞかしびっくりしたと思います。)

その後、嘉蔵はカラクリを船に応用する工事にかかりましたが、村田蔵六の図面を直ちに理解しさらに改良案を進言するなど、すばらしい才能を発揮しました。しかし、試作、試運転を重ねてもなかなか完成しませんでした。原因は、湯釜が鋳物のため、高圧になると「巣」から蒸気が噴出してしまい、圧力が上がらなかったためでした。度重なる失敗に、「おつぶし方」とまで言われました。

「やはり本の知識だけでは無理なのか」

そのとき長崎に黒船が入ったという知らせが届きます。そこで嘉蔵と村田蔵六は、長崎へ黒船を見に行きました。嘉蔵はタービンを叩いてみて分かりました。

「なんだ、鋳物ではなく鋼だ」

今度は鋼でタービンを造ったところ、蒸気の漏れが止まりました。

そしてついに、蒸気船が完成しました。薩摩藩には遅れを取りましたが、2番目の快挙です。しかも薩摩藩には外国の技術者がいましたが宇和島藩は、独力で完成したのです。

その様子を、司馬遼太郎は小説「花神」で以下のように書いています。

以下、「花神」より引用
船がうごいている。海が背後に押しやられ、舳先に白波が沸いている。
平素沈鬱なばかりの家老 松根図書までが子供のようなはしゃぎ声を上げ
「村田、進んでいるではないか」と、振り返って叫んだ。
が、村田蔵六の悪いくせが出た。
「進むのは当たり前です。」…
殿様は驚いている。
「ペリーの蒸気船に日本中が尻もちをついたのは、わずか3年前だ。3年後の今、宇和島湾で蒸気船がうごいている。」

引用ここまで

宇和島藩のこの快挙について、司馬遼太郎は
「この時代宇和島藩で蒸気機関を作ったのは、現在の宇和島市で人工衛星を打上げたのに匹敵する」
と述べています。

すごいものを見ると、もの造りの血が騒ぎ、純粋につくりたいという気持ちが起こり本当につくってしまう先人達。そんな人たちを祖先に持つ日本人という民族に誇りを持ちたいと思います。

第一話 一丁5,000万円でも買う、一目見て国産化を考えた殿様

1543年二丁の鉄砲が種子島にやってきました。その50年後には、日本は世界の鉄砲の50%を所有する鉄砲大国になっていました。この鉄砲を国産化する過程を見ると、いいものを見たら、まずつくることを考える日本人の特性が垣間見られます。さらに鉄砲が急速に伝わったのは、500年以上も昔に「フリーミニアム」戦略を取っていたからでした。

1543年(天文12年)、ポルトガル人を乗せた貿易船が種子島(鹿児島県)に流れ着き、鉄砲が伝えられました。そのとき当時16歳だった島主・種子島時尭は、2丁の鉄砲を今のお金に換算すると約億円で買いました。

初期の火縄銃

なぜ2丁なのか、それは1丁はそのまま使用し、もう1丁は分解して構造を研究するためです。若き島主・種子島時尭は、鉄砲を最初に見た時から自らの手でつくることを考えていたのです。

種子島時尭は、刀鍛冶の八坂金兵衛に鉄砲の国産化を命じました。そして、なんと1年後には国産化を成功させてしまいました。しかし、金兵衛にはどうしてもわからないことがありました。ポルトガルの鉄砲は銃身の底に雌ネジが加工してあり、雄ネジをねじ込んで底を塞いでいました。

しかし、当時金兵衛には雌ネジを加工する技術がなく、どうしたら雌ネジをつくることができるのかわかりませんでした。そこで銃身を熱してからフタを入れて冷まし、抜けないようにする「焼きばめ」という方法を採りました。しかしこの方法では、銃身の底にたまったカスを取り除くことができず、不発や暴発が起きる欠陥銃でした。どうしても雌ネジの作り方を知りたかった金兵衛は信じられない行為に出ます。

なんと自分の娘をポルトガル人に嫁がせたのです。「娘を犠牲にしてでも鉄砲の秘密を知りたい」、金兵衞の執念や恐るべし。やがて明国の船はポルトガル人と金兵衞の娘を乗せて寧波(中国)に戻って行きました。しかし2ヶ月後には日本に売るための鉄砲や様々なものを満載して、再度種子島に来ました。そして金兵衞の願いが通じたのか、娘は  ポルトガル人の鍛冶を連れてきました。こうして、雌ねじの作り方を理解した金兵衞は鉄砲の量産を始めることができました。

しかし、さすがの金兵衞も娘が不憫でならず、ポルトガル人が再び島を離れようとするときに「娘は急病で死んだ」と、芝居を打ちました。怒ったポルトガル人は、「七代まで祟るぞ」と捨台詞を残して去って行きました。以来、八坂家では七代にわたって女の子が生まれなかったそうです。

こうして手にした鉄砲製造技術を種子島氏は、独占することなく求めるものに提供しました。その結果、鉄砲という戦闘を変えてしまうイノベーション(革新兵器)が各地に急速に普及していきます。

津田算長が種子島時尭より鉄砲を譲り受け、紀州に持ち帰り鉄砲の量産を開始し、紀州は鉄砲の有名な産地となりました。また、紀州・根来衆は鉄砲術に優れた傭兵集団としても有名になりました。さらに堺の商人が種子島の鉄砲鍛冶のもとで修行し、鉄砲の製造技術を学び堺で鉄砲の生産を開始しました。さらに種子島に伝わる鉄砲の存在を知った将軍足利義晴が、近江の国坂田郡・国友村に鉄砲を造らせ、これが織田信長の目にとまり、こちらも鉄砲の一大産地となりました。

このように技術をオープンにすることで鉄砲は急速に広まり、日本独自の改良も加えられました。その結果、冒頭のように1500年代終わりには世界の鉄砲の50%を所有する鉄砲大国になっていたのです。

鉄砲は、当時他のアジア各国に伝えられましたが、国産化に成功したのは日本だけでした。その日本で、鉄砲を初めて見た時に、まず自分たちでつくることを考えた若き島主・種子島時尭に日本人の「もの造りの心(DNA)」を感じずにはいられません。そして鉄砲は、技術のオープン化により短期間で全国に広まりました。このオープン化戦略も現代を先取りしていたといえるかもしれません。

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